丁字油と打粉

日本刀は、正しく手入れをすることで、錆びや汚れから刀身を守ることができます。手入れの道具として特に大事なものは、丁字油と打粉です。刀はそのまま放っておくと、傷や汚れがついてしまいます。そのため必要なのが、丁字油などの油です。油でコーティングすることで、刀を保護することができるのです。ただし、ついやってしまいがちなのが油をつけすぎることです。べとべとすると感じるほどつけすぎてしまうと、白鞘の内側に油が染み込んでしまいます。油が染み込むことで鞘の接合部がはがれてしまう危険性があり、そのまま鞘が割れてしまうこともあるそうです。せっかく刀を守るために油をつけているのに、鞘が壊れてしまっては刀の保護どころではありません。油は薄く、油膜がついている程度で問題ありません。次に必要なものは、打粉です。時代劇などで、刀を布のようなものでぽんぽんと叩いているところを見たことある人もいるかもしれません。打粉は砥石を細かく砕いてあるものを、綿や絹で包んだものです。刀身に油を塗りますが、油は時間が経つと酸化してしまうために、定期的に塗り直さなくてはなりません。そこで、古い油を取り除くためにこの打粉が活躍します。打粉でぽんぽんと刀身を打つことで、打粉が刀に付着します。この粉は古い油を吸収してくれますので、最後に紙で拭き取ることで刀が綺麗になるのです。ただし、この打粉もつけすぎると刀に細かい傷をつけてしまいます。刀身にうっすらと粉が乗る程度で問題ありません。可能な限り、少なく使うのがポイントと言われています。初めて使うときには粉が出にくいということもあるそうです。何度か手の甲に打ち付けるなどをしてからの使用がオススメです。

ミステリアスな「小狐丸」

現在奈良県の石上神宮に「小狐丸」として呼ばれる刀剣があるようです。「小狐丸」は、平安時代に一条天皇に命じられた橘道成が、京の刀工に、剣道するための刀を依頼したことから生み出された刀剣であると考えられてきました。 小狐丸の生み出されたストーリーにはいくつか、人々によって創作された物語が付随しているようですが、その物語の中では、天皇に献上するための刀づくりを命じられた刀工が、刀づくりに行き詰まり稲荷神社へお参りに来ると、稲荷大明神の化身が子供として現れ、刀づくりを成功に導いたとされているようです。これは謡曲「小鍛冶」 の一説となる物語のようですが、この「小鍛冶」の中での「小狐丸」は、現存しないことが分かっているようです。ですが現在の奈良県の石上神宮の「小狐丸」のように、小狐丸の名前が付けられているか店は複数あるようです。歴史上に残る日本刀の存在には、神話や伝説などといったものが、含まれていることが多いようですが、そのような謎に満ちたミステリアスな謎解きも日本刀の魅力の一つといえるのではないでしょうか。

刀剣の「鑑定」のはじまり

江戸時代、泰平な世の中では、それまで武器として扱われてきた日本刀が、美術敵な価値観から注目されるようにもなるようです。それまでの時代に、刀剣目利書などとして、日本刀の評価をしてきたものが、目利きから「鑑定」にとって変わるのがこのあたりの時代であるとも言われています。刀剣に関して、「鑑定」という言葉が使われるようになると、美術的な観点からの評価が高まってきているようなのです。また、それまでは、刀剣の切れ味や吉凶を表してきた「目利き」というような表現も、美術的な評価の中での表現としても用いられるようになったようです。これらの書物の中でも、時代ごとに、刀剣の切れ味に趣を重要視するような時代と、美術的な要素を事細かに記述する時代などに分かれてくるようなのです。現代において、刀剣の鑑賞ポイントを示す際には、ガイドブックなどを参考いしてみますと事細かく記述されているのは、その価値が美術品としての傾向が強く現れているのだと実感いたします。

時代の語り部と日本刀

「打刀(うちがたな)」は、太刀とは異なる形状の打刀が作られるようになりました。太刀は、腰に吊るして用いていたのに対し、打刀は腰の帯にさして帯刀していました。また、太刀との大きな違いは、太刀は刃を下にして鑑賞したり、身につけたりするのですが、打ち刀は刃を上にして身につけたりすることが主流となったようです。それまでは武士たちののシンボルとして、大ぶりな太刀が好まれていたのですが、限られた空間である室内での戦闘を踏まえて小ぶりの刀が作られるようにもなったようです。 人々が刀剣を使用する状況や環境の中で、日本刀は様々な変化が見られたようです。現代においては、実戦ではなく観賞用の日本刀が作られ続けていますが、日本刀の違いを知ることによってその時代時代の人々の暮らしが、浮き彫りになることは日本刀の魅力の一つとしても考えられています。日本刀には物語があるという人もいます。時代の語り部としてこれからも日本とが人々に愛されることを願っています。

刀剣の保管と登録証

刀剣の保管場所としては、何よりも湿気が少ない場所が望ましいでしょう。湿気の多い場所に保管してしまうことによって錆やカビの発生が、刀身と拵が痛んでしまうからです。また、刀剣を保管する際には、一般的には横置きにするのが望ましいようです。縦置きにしますと、床との接地面がに不要な圧力がかかるなどとも考えられています。また陽のあたる場所での保管に関しては、特に拵えに影響があるなどと言われています。刀剣と拵の保管には、涼しい湿気の少ない場所が最適であるなどとも考えているようです。 老犬の他に疑問を感じたら、必ず刀剣商などの刀剣のエキスパートのあるお店の店員さんなどに、訪ねてみることが大切です。不明瞭なままで、身勝手な保管をすることで、刀剣が傷んでしまってからでは相談を持ちかけても手遅れであることもあるからです。また大切なことは、刀と一緒に登録証を保管することを忘れてはならないでしょう。刀剣をコレクションする際には、登録証も同様に丁寧に保管することが正しいコレクターであると言えるのではないでしょうか。

三条小鍛冶宗近と狐丸

刀工の中でも、三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)は有名です。平安時代の中ごろ、三条(京)に住んでいたことから呼ばれていました。当時、清少納言が枕草子を書いていた時代なため、平安時代の中でも平和な時代だったことが分かります。宗近の太刀姿が優美であるのは、この時代の空気を反映しているためとも言われています。三条小鍛冶宗近は、勅命によって国家鎮護の太刀を鍛えることになりました。しかし、神の御加護がなければできるものではないと考え、伏見稲荷大明神に祈誓をしました。すると不思議な童子が目の前に現れて、古名刀の話をして力づけてくれました。励まされた宗近が神々に祈誓をしながら仕事に取り掛かると、どこからか狐が現れて手助けをしてくれました。この話は、謡曲の「小鍛冶」に謡われています。他にも小鍛冶宗近は狐に縁があると言われており、さまざまな不思議なエピソードを残しています。小笠原若狭守という武将が、三条小鍛冶宗近の鍛えた名刀「狐丸」を帯びて出陣し、勝ち誇る上杉製の真っ只中に突入したのです。この瞬間から、戦地は凄惨な状態となりました。小笠原は狐丸をふるって激戦していましたが、顔を一颯されたことで血まみれになりました。兜は落ち、味方も次々に倒れたものの、小笠原は何とか落ち延びることができました。しかし乱戦中であったために、名刀の狐丸は叩き落され、そのまま所在が不明になってしまいました。戦後に死骸や物具が埋められて、さまざまな場所に塚が作られましたが、そのうちの一つに夜毎、狐が多く集まるようになりました。不思議に思って塚を掘り返すと、人骨に混じってあらわれたものが、この名刀の狐丸だったと言われています。

「 鑢(すずり)」の模様

日本刀の「茎」のパーツの部分は、通常は柄に隠れているので錆びついているのが一般的であるようです。黒錆といえる鉄の腐食が落ち着くのは300年ほどのの年月が必要であるなどとも言われているようです。実際にかなりの年数を迎えた日本刀の「茎」の風情は刀剣コレクターの浣腸ポイントのひとつであるとも言えそうです。「茎」には、「 鑢(すずり)」が刻まれているのですが、「 鑢」の果たす役目としては、 刀身が柄から脱落してしまうのを予防したと言われています。いつの時代からか、「 鑢」は、本来の役目とはまた別の意味での装飾的な形で施されることがメインとなり、その模様によって分類や区別が行われるようにもなったようです。「鷹ノ羽」「切」「勝手下がり」「せんすき」「化粧」など、様々な模様がありますが、流派、刀工などの特徴を表す一つの間別のでがっかりどうしても用いられているようです。日本刀の楽しみ方として、普段は一般的には目にすることのできない部分の細工や技法を堪能する楽しみも多くみつけられるはずです。

刀剣の「帽子」

刀剣の「帽子」とは、一体どんな部分を表しているかご存知てらっしゃいますか。刀の「切先」「鋒」の全体を「帽子」として表すこともあるようですが、一般的には「鋒」に 現れる刃文の模様を表しているようです。「帽子」には、刀工や流派の特徴が現れるとも呼ばれていますが、場合によっては日本刀の「顔」になるとも表現する人々もいるようです。この帽子の部分にあたる「鋒」は、日本刀の刀身のパーツの中では、もっとも殺傷力が高い箇所であるとも考えられているようです。刀の先端部分の処理によってできる刃文は、コレクター達の鑑賞ポイントとして大変重要なパーツであります。「帽子」には、「弛み(たるみ)」「大丸」「小丸」「二重」「地蔵」「一枚」など、 様々な特徴からその呼び名があるようです。 名の知られた刀工や、流派においては、その名前自体が、帽子の名としてつけられているようなものもあるようです。それほど大きな特徴や特色が現れる部分であるのかもしれません。

延壽

延壽というのは、鎌倉時代末期から南北朝時代の肥後国のことだそうです。来國行の孫といわれる國村が肥後国菊池に移住して隆盛したそうです。國資、國時、國泰がいるそうです。来派の出来でありながら、柾がかかる肌だそうです。地鉄に白気映りが立っているそうです。刃文は匂口が沈んだ直刃だそうです。古宇多というのは、鎌倉時代から南北朝時代の越中国のもので、大和国宇陀から移住した國光を祖としているそうです。

南北朝時代には國房、國宗、國次などがいるそうです。板目や杢目が際立っている地鉄に、湯走りや地景が盛んに入っているそうです。刃文は相州伝の湾れ刃や直刃調だそうで、匂口が潤んでいるそうです。長谷部というのは、南北朝時代で山城国のものだそうです。國重と國信がこの時代の特徴を顕著に示しているそうです。幅広くて重ね薄いもので、先反りの付いた姿格好だそうです。平造脇指は茎が極端に短い造り込みだそうです。相州伝板目鍛えの地鉄に皆焼刃の激しい焼刃が特徴だそうです。

達磨というのは、南北朝時代の山城国のことだそうです。重光を初祖としているそうです。正光などがいるそうです。三代正光が美濃国蜂屋に移住したということで、後代は蜂屋達磨と呼ばれているそうです。南北朝初期の特徴といわれる幅広い造り込みに激しい乱れ刃というものだそうです。後代には直刃に小互の目を節状に配した作があるそうです。大宮というのは、南北朝時代、備前国のものだそうです。鎌倉時代の初祖・國盛が山城国猪熊通大宮から備前国に移住したことからの呼称だそうです。備前大宮の説が有力だそうです。盛景などがいるそうです。地斑が入り映りの立つ板目鍛えの地鉄だそうです。

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