薬研藤四郎の逸話

名桜の政変の結果、政長切腹の段になって、その刀は政長の腹に刺さらなかった。何度刺そうとしても刺さらなかった。

業を煮やした政長が投げ出した刀は近くにあった薬研(薬種を粉砕調合する器)に突き刺さった。粟田口吉光が打った短刀は切れ味鋭いが、主人の腹は切らない忠義の刀と人口に膾炙した。

このあと薬研藤四郎は、足利将軍家、松永久秀を経て、織田信長の所有となる。信長が京都本能寺で非業の最後を遂げてしまうと薬研藤四郎も運命を共にして行方不明となってしまう。

豊臣秀吉、徳川将軍家と伝わったとする説もあるが確かなはなしではなく、今をもっても消息不明の名刀となっている。

2017年になって、刀匠水木良光が「太閤御物刀絵図」に描かれている絵図を元にして復元刀を制作。2018年、刀鍛冶藤安将平の手による薬研藤四郎の再現刀が建勲神社に奉納された。