日本刀の刀工について・続

吉盛というのは、室町時代前期の筑前国の人だそうです。金剛兵衛派。流派の祖である盛隆の子供、あるいは弟だそうです。遺例に、摩利支尊天の神号が茎に刻された冠落造の短刀があるそうです。能真というのは、室町時代後期の豊前国の人だそうです。本国は山城国京。一族は応仁の乱の戦火を逃れて豊前国宇佐へ移住したそうです。そのため、筑紫了戒と呼ばれるそうです。「能」を通字として、独特の作品を遺したそうです。

義助というのは、室町時代末期の駿河国の人だそうです。室町時代後期に活躍したそうです。先代の信定義助は永正十八年に一門を連れて相模国小田原城下に駐槌して、小田原相州鍛冶を興したそうです。義助は今川氏に仕えていたが、主君今川氏と小田原北条氏が親縁だったり同盟関係だったりであったため、小田原での駐槌だったと思われるそうです。義次というのは、南北朝時代中期の備前国の人だそうです。南北朝時代中期にその作品が見られるそうです。大きく焼かれた腰刃が特徴的だそうです。

義弘というのは、南北朝時代初期の越中国の人だそうです。郷義弘。越中国松倉郷の出身で相州正宗に学んだとされているそうです。今日に伝わっている在銘の作はないそうです。江戸時代には、南紀重國や、長曽祢虎徹、井上真改といった人たちをはじめ、たくさんの刀工が義弘の作を範とした義弘写しに取り組んでいるそうです。了戒というのは、鎌倉時代末期の山城国の人だそうです。「了戒」「了戒作」来國俊の門人だそうです。僧門鍛冶というそうです。鎌倉時代後期の正応年間から延慶年間にわたって作刀したそうです。遺例に、来國俊と同然の健全無比の短刀があるそうです。来派の中でも、上位の工であったそうです。

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