薙刀は長さ・穂の形状・柄で様々に分類されていて、大薙刀は刃のの長さが3~4尺(約90~120cm)を超えるもので、中には6尺(約180cm)以上の物もあったと言わていて、長大な武器が流行った南北朝時代は大太刀なども多く作られました。小薙刀は、長さは3尺(約90cm)程度までで、室町時代に入ると短くなり江戸時代には婦人が使うようになったのでこれが標準になりました。また、穂で分類すると、巴形は身幅が広くてそりが大きい・張りがある姿で木曾義仲の愛妾「巴御前」にちなんで名づけられたもので、江戸時代に女性のために作られたものです。反りが大きいので女性の力でも容易く斬り付けられます。静方は身幅が狭くて反りの少ない伸びやかな姿、源義経の愛妾・静御前にちなんでます。
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海外でも評価される日本刀の値段の幅と種類による違い
国内だけではなく海外にもコレクターが存在する日本刀ですが、値段はあらゆる条件によって違いが出ています。太刀、脇差、短刀の違いの他、刀匠やコンディションによる違いもあり、幅は10万円程度から500万円を大きく超える値段が付けられる刀があるので、かなりの差額が生じていることは理解できるのではないでしょうか。製造した時代での違いでは、平安時代から江戸時代までと、江戸時代以降の刀との違いもあり、保存刀剣というカテゴリから特別重要刀剣まで4段階の分類でも価値は大きく変動します。有名な刀匠の作品で希少性が高いもの、更に美しい見栄えの刀であれば1千万円を超える刀も実在しているので、プロの鑑定士による判断基準と世間での相場価格によって日本刀の値段は決められることが一般的です。
黒田継高の心を支えた名刀「兼光」
黒田継高は江戸時代の福岡藩の第6代藩主であり、非常に領民のために尽力した名君と語り継がれています。その中でも特に様々な自然災害に迅速に対応し、また新たな政策を打ち出し領民の生活を豊かにしようとしたことが有名です。
凶作や飢饉等に備えて備蓄を行う「用心除銀」や、参勤交代の際に農民に課する助郷役と言う労役の軽減、堀川の開鑿工事など、領民の生活を豊かにするために様々な施策を打ち出しました。特に「用心除銀」は、当時の徳川将軍であった吉宗の目安箱を真似て良民から意見を取り入れ、これを実現した成果となっています。
黒田継高のこのような領民に尽くす心を支えたものの1つに、徳川家から元服の際に下賜された名刀「兼光」の存在があります。その美しさと潔さが、若き黒田継高の心を魅了し、藩を守る決意を与えたものと言うこともできます。
「中世」を生きる武士たちの姿
日本の歴史を紐解くなかで「中世」と呼ばれる時代は、武士たちの活躍した時代であると言われています。現代を生きる私たちにとって、武士の時代と言われてもなんだかピンとこない方もいらっしゃるかもしれません。現代には「武士」と呼ばれる人びとの存在の情報が乏しいこともありますし、中世の時代から人びとの生活様式が大きく変わっていることもあります。皆さんが描く武士たちのイメージは、どのな姿でしょうか。日本刀を帯刀し馬にまたがる姿を想像される方もいらっしゃるでしょう。専門家たちが述べるところによりますと「武士」とは、戦うことを職業とした人びとであったとされています。武士たちが活躍した「中世」の時代とは、戦乱が起きた時代であったとも言えるのかもしれません。
「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と神話
「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」は、神話のなかで登場する刀剣として有名です。第12代景行天皇のときから「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と呼ばれるようになったとされています。「草薙剣」は、三種の神器の1つとされ、尾張の国(愛知県)の熱田神社のご神体とされておりますが、一時期は朝廷で保管されていたようです。686年天武天皇が病に臥せった際に、草薙剣の祟りとするようなことが言われるようになったため、熱田神社に返還されますが、この剣の姿を見た人びとの記録はなく謎の多い刀剣であります。「両刃の剣」「銅剣」であるとも言われているようですが、実体を証明するために確証のもてる人びとの残した記録がみつからないというのですからこれまでの知名度をもった剣でありながら不思議な剣であります。
魅力的な剣豪たち
歴史上の剣豪として知られている宮本武蔵と佐々木小次郎でありますが、彼らに関するエピソードしては、巌流島の戦いが多くの人びとの知るところであると思われます。ところがこれほど有名な剣豪たちについて残された記録や文献は、多くはみつかっていないというのですから不思議なところでもあります。彼らの雄姿は、小説、映画、ドラマ、芝居などでも多くの人びとを魅了し、彼らの活躍に興味を抱いたことから刀剣コレクターになったような方々もいらっしゃることでしょう。さらには宮本武蔵が晩年になって著したとされる「五輪書」は、現代になってもなお哲学書として、愛読する人びとが絶たないと言われております。これほどまでに有名な二人に関する記録が、ベールに隠されたような部分もその人物を魅力的に魅せているのかもしれません。
薬研藤四郎の逸話
名桜の政変の結果、政長切腹の段になって、その刀は政長の腹に刺さらなかった。何度刺そうとしても刺さらなかった。
業を煮やした政長が投げ出した刀は近くにあった薬研(薬種を粉砕調合する器)に突き刺さった。粟田口吉光が打った短刀は切れ味鋭いが、主人の腹は切らない忠義の刀と人口に膾炙した。
このあと薬研藤四郎は、足利将軍家、松永久秀を経て、織田信長の所有となる。信長が京都本能寺で非業の最後を遂げてしまうと薬研藤四郎も運命を共にして行方不明となってしまう。
豊臣秀吉、徳川将軍家と伝わったとする説もあるが確かなはなしではなく、今をもっても消息不明の名刀となっている。
2017年になって、刀匠水木良光が「太閤御物刀絵図」に描かれている絵図を元にして復元刀を制作。2018年、刀鍛冶藤安将平の手による薬研藤四郎の再現刀が建勲神社に奉納された。
薬研藤四郎の特徴
現代の名工の努力研鑽によって蘇った古の名刀というものが存在する。薬研藤四郎がその名刀の一つといえる。粟田口吉光が薬研藤四郎を作刀したのは、鎌倉時代、山城国(京都府)と伝わっている。
薬研藤四郎は、長刀でなく一尺に足りない短刀である。だが、その切れ味に至っては、決して長刀に引けを取ることはない。最初の所有者が誰であったかは、諸説がありはっきりしないが、有力な説では、室町幕府の三管領の一人、畠山政長であったといわれている。
畠山政長は、畠山家の内紛により従兄の畠山義就と争い、応仁の乱のきっかけを作った人物だ。明応2年4月。
管領細川政元の起こした明応の政変で敗北、自害に追い込まれた、この政変こそが以後、約100年続く戦国乱世の幕開けだと言われ始めている。薬研藤四郎の銘の基となる逸話がこのとき生まれている。
種子島と日本刀
日本ではじめて知油された鉄砲は、1543年種子島に流れ着いたポルトガル人が伝えた火縄銃でありました。
それまで日本国内で使用されていた武器は、日本刀などの刀剣類でありました、火縄銃の威力はまたたくまに全国に知れ渡り、ときに「火縄銃」と呼ばれるようにもなったようなのです。
火縄銃の射程距離は50メートルから100メートルであったとされ、兵士たちが日本刀や槍、薙刀を振り回すことを考えますと、身の安全としての防御を兼ね備えながら、相手に攻撃ができる武器であるとされていたようです。
その後、泰平とされる江戸時代には鉄砲の改良は大幅には行われなかったようですが、大政奉還に起こった戊辰戦争の勝敗の行方を左右した武器しても語り継がれるようになったようです。
粟田口忠綱または一竿子忠綱
粟田口忠綱は、江戸中期から摂津国で三代にわたって作刀した。代々近江守を受領した。鎌倉期の刀工粟田口国綱の流れを汲むと伝えられている。特に著名なのが二代粟田口忠綱で「一竿子」と号し、津田助広、井上真改等と並んで大坂新刀三傑と称されている。本姓は浅井氏、万太夫と通称した。
一竿子の作風は、初代粟田口忠綱から受け継いだ足長丁子、元禄期には津田助広の濤瀾乱れ、井上真改の沸匂深い直刃を焼いた。一竿子といえば何を差し置いても彫りであろう。彫りの秀逸さを表す言葉に「彫りのない一竿子は買うな」といわれるほどである。
彫りは剣巻龍、梅倶利伽羅、鯉の滝登りなど多彩である。一竿子の彫りには「彫同作」「彫物同作」の添銘が必ずついている。
代表作は、重要文化財「太刀 銘 粟田口一竿子忠綱彫同作/宝永六年八月吉」、幕末の大老・井伊直弼の愛刀であった「刀 銘 粟田口一竿子忠綱/正徳三年二月吉日」などがある。