魅力的な剣豪たち

歴史上の剣豪として知られている宮本武蔵と佐々木小次郎でありますが、彼らに関するエピソードしては、巌流島の戦いが多くの人びとの知るところであると思われます。ところがこれほど有名な剣豪たちについて残された記録や文献は、多くはみつかっていないというのですから不思議なところでもあります。彼らの雄姿は、小説、映画、ドラマ、芝居などでも多くの人びとを魅了し、彼らの活躍に興味を抱いたことから刀剣コレクターになったような方々もいらっしゃることでしょう。さらには宮本武蔵が晩年になって著したとされる「五輪書」は、現代になってもなお哲学書として、愛読する人びとが絶たないと言われております。これほどまでに有名な二人に関する記録が、ベールに隠されたような部分もその人物を魅力的に魅せているのかもしれません。

薬研藤四郎の逸話

名桜の政変の結果、政長切腹の段になって、その刀は政長の腹に刺さらなかった。何度刺そうとしても刺さらなかった。

業を煮やした政長が投げ出した刀は近くにあった薬研(薬種を粉砕調合する器)に突き刺さった。粟田口吉光が打った短刀は切れ味鋭いが、主人の腹は切らない忠義の刀と人口に膾炙した。

このあと薬研藤四郎は、足利将軍家、松永久秀を経て、織田信長の所有となる。信長が京都本能寺で非業の最後を遂げてしまうと薬研藤四郎も運命を共にして行方不明となってしまう。

豊臣秀吉、徳川将軍家と伝わったとする説もあるが確かなはなしではなく、今をもっても消息不明の名刀となっている。

2017年になって、刀匠水木良光が「太閤御物刀絵図」に描かれている絵図を元にして復元刀を制作。2018年、刀鍛冶藤安将平の手による薬研藤四郎の再現刀が建勲神社に奉納された。

薬研藤四郎の特徴

現代の名工の努力研鑽によって蘇った古の名刀というものが存在する。薬研藤四郎がその名刀の一つといえる。粟田口吉光が薬研藤四郎を作刀したのは、鎌倉時代、山城国(京都府)と伝わっている。

薬研藤四郎は、長刀でなく一尺に足りない短刀である。だが、その切れ味に至っては、決して長刀に引けを取ることはない。最初の所有者が誰であったかは、諸説がありはっきりしないが、有力な説では、室町幕府の三管領の一人、畠山政長であったといわれている。

畠山政長は、畠山家の内紛により従兄の畠山義就と争い、応仁の乱のきっかけを作った人物だ。明応2年4月。

管領細川政元の起こした明応の政変で敗北、自害に追い込まれた、この政変こそが以後、約100年続く戦国乱世の幕開けだと言われ始めている。薬研藤四郎の銘の基となる逸話がこのとき生まれている。

種子島と日本刀

日本ではじめて知油された鉄砲は、1543年種子島に流れ着いたポルトガル人が伝えた火縄銃でありました。

それまで日本国内で使用されていた武器は、日本刀などの刀剣類でありました、火縄銃の威力はまたたくまに全国に知れ渡り、ときに「火縄銃」と呼ばれるようにもなったようなのです。

火縄銃の射程距離は50メートルから100メートルであったとされ、兵士たちが日本刀や槍、薙刀を振り回すことを考えますと、身の安全としての防御を兼ね備えながら、相手に攻撃ができる武器であるとされていたようです。

その後、泰平とされる江戸時代には鉄砲の改良は大幅には行われなかったようですが、大政奉還に起こった戊辰戦争の勝敗の行方を左右した武器しても語り継がれるようになったようです。

粟田口忠綱または一竿子忠綱

粟田口忠綱は、江戸中期から摂津国で三代にわたって作刀した。代々近江守を受領した。鎌倉期の刀工粟田口国綱の流れを汲むと伝えられている。特に著名なのが二代粟田口忠綱で「一竿子」と号し、津田助広、井上真改等と並んで大坂新刀三傑と称されている。本姓は浅井氏、万太夫と通称した。

一竿子の作風は、初代粟田口忠綱から受け継いだ足長丁子、元禄期には津田助広の濤瀾乱れ、井上真改の沸匂深い直刃を焼いた。一竿子といえば何を差し置いても彫りであろう。彫りの秀逸さを表す言葉に「彫りのない一竿子は買うな」といわれるほどである。

彫りは剣巻龍、梅倶利伽羅、鯉の滝登りなど多彩である。一竿子の彫りには「彫同作」「彫物同作」の添銘が必ずついている。

代表作は、重要文化財「太刀 銘 粟田口一竿子忠綱彫同作/宝永六年八月吉」、幕末の大老・井伊直弼の愛刀であった「刀 銘 粟田口一竿子忠綱/正徳三年二月吉日」などがある。

相州伝の作風

「相州伝」の作風は、戦乱に明け暮れる鎌倉武士の好みに合った力強く、覇気に満ちた作風が特長である。

具体的には、身幅が広く鋒が伸びている。重ねを薄くして刃の通りが良く切れ味が鋭い。馬上での闘いの時、扱いやすくするため刀身の中心に反りの頂点が来る輪反り。

このように全てが実戦に即した刀姿している。地鉄は、板目に杢目交じり。刃文は、沸が強く互の目乱れ、さらに飛焼、皆焼が現れている。「相州伝」の刀工たちは、元寇の影響で作刀の根本を豪剣の作刀とした。

そのため、より強い刀剣を製作するために新しい鍛造法の研究を重ねた。この鍛造方法の詳細は未だ不明ではあるが、高温での加熱と急速な冷却が重要な鍛造方法だと考えられている。

この技術は、鎌倉幕府の滅亡と共に衰微し、安土桃山期には消滅してしまった。

日本人の生活とともに変化する日本刀のあり方

日本の歴史を振り返る中で、日本国内に刀剣がもたらされたのは、大陸から輸入された直刀がそのはじまりであったのではないかなと考えられているようです。現在、皆さんがご存知のような曲線美のある美しい刀剣は、世界各国にみられる刀剣と比較しても、日本独自のオリジナルな個性を強く持つものであると言えそうです。曲線美の美しさとともに強度を兼ね備えた日本刀は、大陸から直刀がやってきた後、約1000年ほどの月日を費やして日本人が工夫を重ねつくり上げた傑作品であるのではないかなどとも言われているそうです。一言で「日本刀」などと言いましても、実際にはその姿形や装具、金具に至る細部までも含め、時代によってその移り変わりが色濃くみられるそうです。現在、美しい曲線美を描く刀剣として知られている日本刀が登場しはじめる平安時代の後半では、主に武器や儀礼用として用いられておりましたが、江戸時代になると日本刀の武器としての意味合いが遠ざかったことから、かつての時代に流行した長い太刀を短めの打ち刀に直してみたり、古名刀を懐かしむように豪快な反りのある大鋒を復刻版としてリバイバルさせることもあったようです。

二度に渡る日本の危機「蒙古襲来」

鎌倉時代、二度に渡る国難が訪れます。1274年文永の役、1281年弘安の役は、蒙古襲来として知られております。北条時宗は、時の鎌倉幕府の執権として、御家人を九州沿岸の防備を命じます。

その当時、蒙古の襲来に備える形で、太刀や短刀などを数多くつくらせたとも言われております。蒙古襲来は、「元寇」などとも呼ばれ歴史上、日本が崩壊していたかもしれない二度にわたる大ピンチであったなどととして知られておりますが、日本側の勝因は「神風」などと呼ばれる「台風」などの自然災害に助けられたとされておりますが、その詳細は未だに解明されていないところもあるようです。

鎌倉時代の太刀や短刀は、当時、全盛期を迎える武家文化を支える存在でもあったようです。現代において刀剣を扱う世界では、鎌倉時代につくられた作品の数々を最高級のものとして考える人々が多いようです。

鎌倉時代から南北朝時代につくられた日本刀の特徴を端的に一言であらわすと「勇壮」などの言葉などが使われることが多いようです。

狐丸

小狐丸とよく似た名前の太刀で、「狐丸(きつねまる)」と呼ばれるものがあった。人によってはこの二つは同一の太刀ともいい、人によっては別物ともいうが、この狐丸にまつわる逸話を紹介しよう。

長野県長野市のあるりんご畑の中に、古い五輪塔が立っている。これは「狐丸塚」とも呼ばれ、武田信玄(たけだしんげん)に仕えた小笠原若狭守(おがさわらわかさのかみ)長詮(ながのり)の家臣・桑山茂見(くわやましげみ)の墓と伝えられている。茂見は、川中島の戦いで、主君・長詮を逃がすために、長詮の鎧兜と愛刀・狐丸を身に着け、身代わりとなって討ち死にした。 合戦後、散乱している亡骸と武具を集めて塚を築いたところ、夜ごと塚に狐が集まり鳴き騒ぐ。不審に思い塚を掘ってみると、茂見が最後に持っていた狐丸が見つかったという。以来、この塚は狐丸塚と呼ばれるようになったといわれている。 小狐丸も狐丸も、現在所在不明である。