相州伝の作風

「相州伝」の作風は、戦乱に明け暮れる鎌倉武士の好みに合った力強く、覇気に満ちた作風が特長である。

具体的には、身幅が広く鋒が伸びている。重ねを薄くして刃の通りが良く切れ味が鋭い。馬上での闘いの時、扱いやすくするため刀身の中心に反りの頂点が来る輪反り。

このように全てが実戦に即した刀姿している。地鉄は、板目に杢目交じり。刃文は、沸が強く互の目乱れ、さらに飛焼、皆焼が現れている。「相州伝」の刀工たちは、元寇の影響で作刀の根本を豪剣の作刀とした。

そのため、より強い刀剣を製作するために新しい鍛造法の研究を重ねた。この鍛造方法の詳細は未だ不明ではあるが、高温での加熱と急速な冷却が重要な鍛造方法だと考えられている。

この技術は、鎌倉幕府の滅亡と共に衰微し、安土桃山期には消滅してしまった。

日本人の生活とともに変化する日本刀のあり方

日本の歴史を振り返る中で、日本国内に刀剣がもたらされたのは、大陸から輸入された直刀がそのはじまりであったのではないかなと考えられているようです。現在、皆さんがご存知のような曲線美のある美しい刀剣は、世界各国にみられる刀剣と比較しても、日本独自のオリジナルな個性を強く持つものであると言えそうです。曲線美の美しさとともに強度を兼ね備えた日本刀は、大陸から直刀がやってきた後、約1000年ほどの月日を費やして日本人が工夫を重ねつくり上げた傑作品であるのではないかなどとも言われているそうです。一言で「日本刀」などと言いましても、実際にはその姿形や装具、金具に至る細部までも含め、時代によってその移り変わりが色濃くみられるそうです。現在、美しい曲線美を描く刀剣として知られている日本刀が登場しはじめる平安時代の後半では、主に武器や儀礼用として用いられておりましたが、江戸時代になると日本刀の武器としての意味合いが遠ざかったことから、かつての時代に流行した長い太刀を短めの打ち刀に直してみたり、古名刀を懐かしむように豪快な反りのある大鋒を復刻版としてリバイバルさせることもあったようです。

二度に渡る日本の危機「蒙古襲来」

鎌倉時代、二度に渡る国難が訪れます。1274年文永の役、1281年弘安の役は、蒙古襲来として知られております。北条時宗は、時の鎌倉幕府の執権として、御家人を九州沿岸の防備を命じます。

その当時、蒙古の襲来に備える形で、太刀や短刀などを数多くつくらせたとも言われております。蒙古襲来は、「元寇」などとも呼ばれ歴史上、日本が崩壊していたかもしれない二度にわたる大ピンチであったなどととして知られておりますが、日本側の勝因は「神風」などと呼ばれる「台風」などの自然災害に助けられたとされておりますが、その詳細は未だに解明されていないところもあるようです。

鎌倉時代の太刀や短刀は、当時、全盛期を迎える武家文化を支える存在でもあったようです。現代において刀剣を扱う世界では、鎌倉時代につくられた作品の数々を最高級のものとして考える人々が多いようです。

鎌倉時代から南北朝時代につくられた日本刀の特徴を端的に一言であらわすと「勇壮」などの言葉などが使われることが多いようです。

狐丸

小狐丸とよく似た名前の太刀で、「狐丸(きつねまる)」と呼ばれるものがあった。人によってはこの二つは同一の太刀ともいい、人によっては別物ともいうが、この狐丸にまつわる逸話を紹介しよう。

長野県長野市のあるりんご畑の中に、古い五輪塔が立っている。これは「狐丸塚」とも呼ばれ、武田信玄(たけだしんげん)に仕えた小笠原若狭守(おがさわらわかさのかみ)長詮(ながのり)の家臣・桑山茂見(くわやましげみ)の墓と伝えられている。茂見は、川中島の戦いで、主君・長詮を逃がすために、長詮の鎧兜と愛刀・狐丸を身に着け、身代わりとなって討ち死にした。 合戦後、散乱している亡骸と武具を集めて塚を築いたところ、夜ごと塚に狐が集まり鳴き騒ぐ。不審に思い塚を掘ってみると、茂見が最後に持っていた狐丸が見つかったという。以来、この塚は狐丸塚と呼ばれるようになったといわれている。 小狐丸も狐丸も、現在所在不明である。

日本刀について

日本刀は世界の刀剣の中でも、高い切れ味を持っています。
そして、その美しさ。
我が国が誇る、機能と美を持った刀剣であると言ってもよいでしょう。

日本刀とは?
一般に、日本刀と呼ばれているものは、長刀、つまり「刀(かたな)」です。
日本刀を見てわかるとおり、刀身の片側にのみ刃が付いています。
ちなみに、刀身の両側に刃が付いているものは、「剣(つるぎ)」と呼びます。

剣は、主に「振り回して、突き刺す」戦い方のために作られました。
その後、戦い方が馬上での戦いになり、突き刺す剣では使いづらい状況となりました(突き刺すだけなら槍の方が有利でした)。そこで、馬上の接近戦用に、振り下ろして相手にダメージを与えられるように、軽くて振り回しやすい刀ができたのです。つまり、剣と違って、刀は「斬る」ために作られた武器です。

日本の刀は、昔に中国から持ち込まれたそうです。当時の刀は反りのない「直刀」でした。そして、平安時代中期頃からより斬れるように、より連続して斬れるようにと反りができ、日本刀として進化しました。日本刀に限らず「反り」がある刀はありますが、日本刀のように軽くて薄いのに曲がらず、折れず、よく斬れる刀はあまり見かけません。これは、日本人の鍛錬技術のたまものだと思います。

また、刀は時代によって成人を表すものになったり、身分に合わせて帯刀するなどのステータスシンボルともなりました。時代劇でも有名な江戸時代には、一揆防止もありましたが、帯刀は武士の証で町民や農民などの身分が低いと言われていたもの達には許されませんでした。

日本刀は武器でありながら、かなり美術性が高いものです。鍛えられた刀身の輝きだけでなく、反りや刃文、鍔(つば)の彫り、柄(つか)の巻きなど、魅了される美しさが随所に見られます。現在にも多数残された日本刀に人気があるのもうなずけます。

刀装具

“ 代表的な刀装具である鍔、目貫は、その実用性と共に、美的価値も評価されました。室町時代には既にそうした審美眼が養われていたと考えられます。室町時代は意匠やファッションに関心を深めた時代で、例えば武士の衣服が大きく様変わりしたのもこの時代です。それまでは素襖のみで済ませていましたが、衣袴が採用されて、多様なファッションが試みられました。例えば、小袖の着物の上から肩衣をかけるなどしましたし、さらに袴をはく武士もいました。日本刀も太刀から打刀に移行し、ファッションの一部と見做されるようになりました。この流れが刀剣の美術品としての価値を浮かび上がらせることとなり、日本刀の収集に勤しむ人が増えたのです。
 刀身だけではなく、刀装具も当然デザインに拘った造りになりました。刀装具専門の彫金師まで現れ、拘りのある人は信頼できる彫金師に仕上げを依頼するようになりました。例えば足利家に仕えた有名な彫金師として、後藤祐乗を挙げることが出来ます。また、江戸時代には横谷宗珉が活躍しました。刀身、刀装具に加えて、提げ物、印籠にまで拘る人もいました。
 日本刀はこのように装飾が施された美術品でしたが、同時に実用性もありました。つまり名刀は切れ味も抜群だったのです。切れ味の良い刀は強度も高く、中々壊れなかったと言われます。しかし時代劇のように斬れることはありませんでした。”

枕刀

古くから、日本刀は「魔除け」の意味をもつ。『源氏物語』にも、光源氏が悪霊にとりつかれる気配を感じて目を覚ますと、灯も消えてしまって気味悪く思ったので、魔除けのために太刀の鞘をはらって置いたという一節がある。この時代にも、刀剣に込められた霊力が信じられていたことを物語っている。
現代でも、日本刀のもつ魔除けの力を尊ぶ風習が残っている。 地域や宗派にもよるだろうが、家族や親戚など近しい人を亡くしたことがある方は、故人を安置した布団の上、納棺したあとは枢の上に、刀が置かれているのを見たことはないだろうか。これは「枕刀(まくらがたな)」といって、魂の抜けた故人に悪霊が近寄ってこないようにするための守り刀である。葬儀社が用意してくれる小刀を使うのが一般的だが、故人が生前大切にしていた 愛刀や、誕生のときに授けられた守り刀を枕刀として葬儀で使用されることもある。

「脇差(わきざし)」

「脇差(わきざし)」とは、日本刀のような長い刀が使用できないような環境の中で、刀を抜く必要が生じた際に、予備の刀として使用されていた日本刀よりも比較的短い刀になります。「脇差」は非正規の刀などといった形で言いあらわさられることもありますが、江戸時代、武士たちは「大刀」と呼ばれる長めの刀と「小刀」と呼ばれる脇差の二つの刀を帯刀していたそうです。当時「脇差」は、約60 CM 以上、30 CM 未満のものであるなどとされていたようです。江戸時代の武士たちが二つの大きさの違う刀を帯刀するに至るまでには、いくつかのきっかけとなるエピソードがあったようですが、その起源とされるところはハッキリとした出来事は判明していないようです。現代人がスマートフォンを外出時に2、3台持ち歩き使う目的によってデバイスの使い分けが行われるように、日本刀も必要に迫る用途によって使い分けが行われていたのはごく自然な事柄であるように思われます。

丁字油と打粉

日本刀は、正しく手入れをすることで、錆びや汚れから刀身を守ることができます。手入れの道具として特に大事なものは、丁字油と打粉です。刀はそのまま放っておくと、傷や汚れがついてしまいます。そのため必要なのが、丁字油などの油です。油でコーティングすることで、刀を保護することができるのです。ただし、ついやってしまいがちなのが油をつけすぎることです。べとべとすると感じるほどつけすぎてしまうと、白鞘の内側に油が染み込んでしまいます。油が染み込むことで鞘の接合部がはがれてしまう危険性があり、そのまま鞘が割れてしまうこともあるそうです。せっかく刀を守るために油をつけているのに、鞘が壊れてしまっては刀の保護どころではありません。油は薄く、油膜がついている程度で問題ありません。次に必要なものは、打粉です。時代劇などで、刀を布のようなものでぽんぽんと叩いているところを見たことある人もいるかもしれません。打粉は砥石を細かく砕いてあるものを、綿や絹で包んだものです。刀身に油を塗りますが、油は時間が経つと酸化してしまうために、定期的に塗り直さなくてはなりません。そこで、古い油を取り除くためにこの打粉が活躍します。打粉でぽんぽんと刀身を打つことで、打粉が刀に付着します。この粉は古い油を吸収してくれますので、最後に紙で拭き取ることで刀が綺麗になるのです。ただし、この打粉もつけすぎると刀に細かい傷をつけてしまいます。刀身にうっすらと粉が乗る程度で問題ありません。可能な限り、少なく使うのがポイントと言われています。初めて使うときには粉が出にくいということもあるそうです。何度か手の甲に打ち付けるなどをしてからの使用がオススメです。